深井晃子 『ファッションから名画を読む』 PHP研究所 2009

 ルイ14世逝去からはじまったロココの華麗で繊細なテイストは、絹織物によるものだった。しかし、マリー=アントワネットが王妃となった1775年ごろからひとびとの好みが大きく変わる。宮廷こそ形式的な服装様式が支配的ではあったが、古代ローマ遺跡ヘラクレネウムの発掘と連動し、装飾性を排した幾何学的形態の新古典主義の傾向が現れる。これに大きな影響を与えているのが、1760年代のイギリス産業革命とそれに伴う木綿産業の勃興である。簡素な風情の木綿は、1786年英仏商業条約によってフランスに大量に流入し、アングロマニー(イギリス崇拝)のなかで絹に取って代わる衣料となったのである。

 ダヴィッドの《レカミエ夫人》(1801年)をこんな風に観ることができるとは。服飾史の専門家である著者ならではである(であるではである)。
 しかし、このような鑑賞法が成立するということは逆に、絵画(画家)がそれだけ時代的な影響を蒙っているということでもある。それを想像力の貧困ないし限界などという必要はない。世に天才と呼ばれるような人たちのとっぴな想像力は、虚空から突然生まれ出でたのではなく、穴を穿つほどにためつすがめつした現実に根ざしているのだろう。脱領域的感覚を身に着けたいならば、地(知ではない)に足をつけるのが先決だろう。

レヴィ=ストロース 『悲しき熱帯』 上・下 川田順造訳 中央公論社 1977

 西欧近代は、かつて、普遍的な真理を独占していた。宗教であれ人権思想であれ、ヨーロッパ世界は唯一、真理を握り、人類を代表していると思い上がっていた(まだそれにしがみついている人がいるかもしれないが)。レヴィ=ストロースは、しかし、その真理が「制度」の一つにすぎないのだということを喝破した。西洋のまなざし(主体)にこだわらず、あっちこっち視座を移し変えながら世界を眺めてみれば、よくわかる。どの視点からも直接見ることはできないけれど、それらの彼方に構造は浮かび上がってくる。

 初期の人類学は歴史主義とか伝播主義とよばれる進化論的史観だった。社会は未開の段階から徐々に進歩して、最終的に西欧近代に至る。資料は殆どが二次資料で、この頃の論文には色々な致命的誤りが認められる。とはいえ、フレイザーやローウィーの仕事には目を瞠る。
 これに反旗を翻したのが、1920年代も終わり、マリノフスキーである。彼以降の人類学者は現地調査が基本になる。彼は、未開社会も社会である以上、ある程度のまとまりを持っていると考えた。一見無用と思える制度も、何らかの役に立っているはずだ、というのである。この学派は機能主義とよばれる。

 だが、結局、機能というのは西欧的発想にすぎない。レヴィ=ストロースにとって、それは余りに不十分であった。むしろ逆に、西欧思想を揺るがすような方法を原住民を通して獲得していく道を、彼は選択する。
 例えば、文字。文字を持ったことは、過去をより明確に意識することを、したがって、現在と未来により大きな可能性をもたらしたように思える。この文明と野蛮を区別する規準はしかし、ちっともそのようなものではないのである。人類にとっての最大の巨歩は、農耕、動物の家畜化その他技術を生んだ新石器時代といえようが、新石器革命当時、文字はまだ知られていなかった。代わって、文字発明以後から近代科学の誕生までに目を転じる。だが、ギリシアローマ市民の生活様式と18世紀ヨーロッパの有産階級の生活様式のあいだにたいした違いはないのである。文字を持ちながら、西洋の諸文明は長く停滞してきたのであり、知識は増大したというよりはむしろ波動していたのである。文字の出現に忠実に付随していると思われる唯一の現象は、都市・帝国の形成とそこに所属する成員の階級への位付けである。つまり、文字は知識を強固にするのに十分でなかったにせよ、支配を確立にするために、人間の搾取に便宜を与えるのに不可欠だったといえる。
 もう一つ、今度は食人を考えてみよう。多く、食人の諸形態は呪術的な理由に基づいている。例えば、死者の徳を身に着けるためであったり、また、敵である死者を無力化するためであったりする。対して、そうした食人に対する非難も、食人の形態如何によらず、劣らず宗教的なものである。それは例えば、死体の既存によって危うくされる肉体の甦りへの信仰か、あるいは、霊魂と肉体の結びつきの肯定である。非難が立脚する信念と食人を行う名目となる信念とは同じ性質のものである。
 このアントロポファジー(人間を食うこと=脅威を食うことで無力化/活用)とアントロペミー(人間を吐くこと=脅威を隔離して社会体の外に追い出す)との二項対立に何ら問題がないとはいえないが、西欧の知のシステムを相対化するのには役立つだろう。

 先住民は、西欧式の思考道具をもってはいない。しかし、考えるのに便利な自然の事物をつかって、つまりブリコラージュして、さらにいえば野性の思考に支えられて、彼らを取り巻く宇宙について考えているのだ。レヴィ=ストロースはそのことを、パースペクティブからキュビスムへと進んだように、それともユークリッド幾何学から射影幾何学位相幾何学が誕生したように、構造をつかって示したのだ。

鈴木董 『オスマン帝国 イスラム世界の「柔らかい専制」』 講談社 2007

 近代ヨーロッパは、オスマン帝国を対立項に置くことによってはじめて、出現する。それは、オスマン帝国コンスタンティノープルを征服した1453年が、西洋史における中世、近代の分岐点とされているから、だけではない。ルネサンス宗教改革が吹きすさぶ当時の西洋にとってオスマン帝国は、ベーコンが言ったように「世界の目前の脅威」であると同時に、強靭で精巧極まる一つの頂点に達した国であった。ルネサンス概念の確立者であるヤーコブ・ブルクハルトが当時のイタリアを「計算された被造物、芸術作品としての国家」と称したが、15,6世紀の西洋人にとっては、オスマン帝国をこそそのような国家と感じていた。


 10世紀から13世紀前半にかけて、アナトリアには、衰退の兆しを見せはじめたビザンツ帝国、意気盛んなイスラム勢力、南欧系のカトリック教徒が鼎立していた。しかし、そこにはエアポケットが存在し、多数のムスリム・トルコ系の人々が流入していた。そして13世紀半ば、モンゴルがこの3竦みを打ち破ることによって、アナトリアは、無数のガーズィー(ムスリム・トルコ系の戦士集団)が割拠することになる。そんななか、帝国の始祖伝説に名を残すことになる男が、数百の仲間集団を率いていた。オスマン・ベイ(ベイは首長の意)だ。
 オスマン自身はそれほど勢力を拡大するには至らなかったが、息子オルハンの代には、14世紀中葉までに、ボスポラス海峡を隔てたアナトリアビザンツ領ほぼすべてを占領した。第3代ムラト一世は組織整備にも尽力し、奴隷軍人制度を起用して常備軍の基礎が築かれる。之は同時に、オスマン朝専制化も意味する。バヤズィット一世がアンカラの戦いに敗北したことで一時衰微するものの、1453年には、メフメット二世がコンスタンティノープルを征服するに至る。
 メフメット二世、バヤズィット二世はその後も順調に領地を拡大した。当時、イスラム世界はオスマン帝国を含め、イランのシーア派サファヴィー朝と、エジプトのマムルーク朝とで3極構造の様相を呈していたが、1512年に即位したセリム一世は両王朝に勝利を収め、当時の主要な海陸交易ルートを手中にした。加えて、ヒジャーズの支配者シャリーフ家からメッカとメディナの町の鍵を得たことで、オスマン帝国は全イスラム国家中で特別のプレステッジを獲得する。そして、スレイマン一世においてオスマン帝国は頂点を極める。彼の治世は46年に及び、1566年に歿するまで、「壮麗者」の名で呼ばれることになる。

 大帝の死後、後期オスマン帝国は、その対外関係に翳りが差しはじめる。とはいえ、イスラム世界におけるオスマン帝国の位置づけはある程度安定していた。実際、イスラム世界に対しては、18世紀にも、16世紀以来の領土を確保し続けることができた。しかし、対西欧関係は、18世紀前後から悪化する。1699年のカルロヴィッツ条約(ハプスブルク帝国ハンガリーの大部分を譲渡)など、後期オスマン帝国は、1922年に亡びるまで、恒久的な領土喪失に悩まされる。
 原因は2つ。第一に、近代西欧に起こった社会体制の変化と軍事技術の革新である。常に技術的優位に立ち続けていたオスマン帝国はここにきて、力関係を覆された。これはオスマン帝国の強固な組織支配を揺るがした。
 第二に、西欧の新思想、ナショナリズムが徐々に帝国内に浸潤してきた。帝国のズィンミー制度は「宗教」を基軸にする。前期オスマン帝国はそれでうまく回っていた。ギリシア系臣民は自分をギリシア正教徒(ローマ人)と意識していた。しかし、フランス革命はその意識を根底から変換させる。彼らはギリシア人意識にアイデンティティを求め始める。この「民族」という項は、オスマン帝国のゆるやかな統合のシステムを根本から破壊するものであった。
 これらの原因から、オスマン帝国は西欧化を躍起になって推し進めるが、結局、第一次大戦によって帝国は解体される。

田中修 『雑草のはなし 見つけ方、たのしみ方』 中央公論新社 2008

 写真が死を引き受ける装置であることを述べたのはロラン=バルトであったが、生のヒガンバナは、一瞬を鮮烈に切り取り、不動にする。 日本人はこの花に実に多様な呼び名を与えたが、それらの一部を覗いてみるならば、彼らが抱いた感情の一端を窺い知れよう。

 ソウシキバナ、ハカバナ、カジバナ、ユウレイバナ、シビトバナ

 他方、その学名は lycoris radiata であるが、lycorisはCytherisというローマ時代の女優の名前に因む。西洋の与えた美しい印象に比すると、グロテスクな和名。

 多くの生物は、両親から1組ずつの染色体を受け継ぐ。それらを2分割して生殖細胞がつくられる。しかし、日本のヒガンバナは三倍体であり、3組の染色体を持つ。そのために、有性生殖不能である。代わりに、球根による無性生殖(栄養生殖)で繁殖する。つまり、クローン、ということである。日本に生育するものならば、花の大きさも色も背の高さも、同一の属性を有し、斉一に花咲き乱れる。
 ひとびとは死を、この同一性によって担保していたのであろう。毎年同じ時期に、同じ姿を、その場所で見せるその花々に。冷凍保存された生が状況証拠になり死を否認しつつ、同時に引き受けるしかない。
 ヒガンバナが宗教的象徴的な受容体の役割を演じるならば、この赤い花は曼珠沙華と呼ばれるに相応しい。

山梨俊夫 『現代絵画入門 二十世紀美術をどう読み解くか』 中央公論社 1999

 二十世紀美術、特に抽象芸術といって一絡げに語られる諸作品は、古典期が追求したリアリズムとは程遠いように見える。しかし、まさにその「現実」というものへの肉薄を軸線に据えたとき、具象/抽象という形式的な区分は二義的なところにまで後退する。

 二十世紀前後、現実は、主体の視線と世界の交点に頼りなくも浮かび上がってくるみなわに過ぎないものになった。世界は確固とした足場を失ってしまった。ゆえに、これ以降のリアリズムは、世界を単純に写実的に描写することとはまったく別の次元を目指さざるを得なくなった。

 フランシス=ベーコンは、ベラスケスやゴッホの絵、ミュレイの写真、友人たちの顔……それらを下敷きにしながら、それらを圧倒的な膂力をもって歪ませる。その変形は画家の破壊衝動などではなく、真の現実を追い求める個人の叫びである。ベーコンは、ひとびとの視像がどれだけ捻くれているかに気づいていた。だから、その真実を覆い隠さんとする力に抗い、図像を暴力的に歪めることで、相対的な現実から主観的な現実を抉り出さんとする。
 一方、アルベルト=ジャコメッティは「見えるまま」を描くことに執着する。皮相ではベーコンと対称をなすジャコメッティの絵は、しかし、世界から外皮を引き剥がす極点に至り、ベーコンに近接する。ジャコメッティの眼差しは、あらゆる事物を名辞のない存在に投げ返す。

 ジャコメッティにあっては、人間すら不動の「物」の次元に無限に後退していき、生の関係から切り離されていってしまう。他方、マルセル=デュシャンの仕事は芸術と生の領域を攪拌していく。
 モーリス=ドニ以降、額の中に現出する仮構の絵画空間はその特権的な立場からは引き摺り下ろされ、むしろ絵画自体(カンバス、絵具)が世界に占めるものとしての側面が強調されるようになる。デュシャンが便器を逆さに置いたとき、日常的な生と芸術の境界は大きな揺さぶりをかけられた。しかし、デュシャンに言わせれば、あらゆる芸術はレディ・メイドであり、アサンブラージュに過ぎないのだ。結果的に、デュシャンが起こした波紋も、暫時のうちに、芸術という怪物がより巨大になるための餌になる。ヨーゼフ=ボイスは、芸術という概念が画家や彫刻家の作品と結び付けられることにすら反抗する。「芸術」とは、人間の創造性や仕事に結びつくあらゆることを指示するものとして鎮座するのである。

 

Ferdinand de Saussure 『ソシュール 一般言語学講義 コンスタンタンのノート』 2007 東京大学出版会 

 ソシュールの思想は、ジュネーブ大学で行われた三回の講義に出席した学生たちのノートを通して知られる。一般的にはバイイとセシュエによるものが有名だが、丸山圭三郎は本著を推薦していたので、手に取った。というのも、言語学の一部門である音韻論の原型をつくったことで知られるプラーグ学派を渉猟していたら、こんがらがったのだ。これは、どこかで勘違いをしているなと思ったわけだが、果たしてソシュールだった。というわけで、ソシュールの議論を概略的に記してみよう(ところで、言語学は他に統語論と意味論からなる。統語論ではチョムスキーが有名だが、はて、意味論は?)。

 本書の前半は、言語学が対象とする領域を設定するために割かれている。ソシュール以前の言語学は、専ら歴史言語学に位置づけられる。しかし、ソシュールはもっと人間と言語を密接に関連付けた言語学を考える。垂直的な通時態は学者が扱うものに過ぎない、人々は水平な断面の上(共時態)で話すのだ。ゆえに、ソシュールは、歴史を捨象する。
 つづいて、ソシュールは、言語(ラング)の言語学と発話(パロール)の言語学を区別する。集団的な言語学と個人的な言語学と言い換えてもいい。ソシュールが研究対象としたのは、規則的な部分、言語という記号の秩序のほうだ。

 後半からは、いよいよ、言語システムの深遠に分け入る作業に入っていく。と、その前に結論を先取りしてしまえば、個々の記号はシステム内部の論理によってのみ決定され、外部の実体とは無関係だ、というのが大まかなところである。
 さて、上の結論を簡単に二つの方向から回収していこう。一つは記号の恣意性であり、もう一つは差異のシステムである。
 
 「猫」という言葉が指示する対象は何だろうか。うちでは白猫を飼っているが、最近運動不足なあんちくしょうが思い浮かぶ。あんちくしょうはこの世界の一部を占める実物、物質的な存在である。しかし、そう考えると可笑しな部分が浮かんでくる。例えば、虹の色は何色か。日本の大部分の地域では七色というし、イギリスでも七色だ。どうも七色というのはニュートンが言い出したようなのだが、世界を見渡してみると、それぞれの民族が十人十色、色々であり、二色と捉える民族も珍しくない。
 世界は実定的な要素の集合ではない。世界のあり方は、それぞれの言語がカッターナイフのように、勝手に切り刻んだものなのである。こういう特徴をソシュールは、言語の恣意性と名付けた。また、そのようにして切り取られた概念(世界の中にある実体のことではなく)をシニフィエという。

 二つ目も、言語の物質的な側面を考える。音声、特にその区別の立て方である。「ね」と「こ」の区別は音響学的に追究できる。しかし、日本人が「え」と「é」と「è」の音の区別を言い立てない理由を、物理学は語りえない。ここにも区別に先立つ実体などないのである。それどころか、区別区別区別、どこまでいっても区別(シニフィアン)しかない。ソシュールは言語には差異しかないと言ったのだ。

 結局、言語のシステムは、シニフィアンの差異とシニフィエの差異の総体に過ぎないのである。言葉は、外界に確固として据え付けられてなどおらず、それぞれのシステム内部のあらゆるものとの対立関係によってしか、位置も大きさも、すなわち価値など与えられないのだ。
 

 

 

若桑みどり 『イメージを読む』 2006 ちくま学芸文庫 

 本書は、まったくの初心者向けに、つまらない美術史を面白く描いた本だ。主要な3つの方法論(様式論、図像学、図像解釈学)を用いて、絵画というメディアを読み解いていく。

 今、メディアといったが、我々が慣れ親しんでいる印象主義的画面、ただ見たままに描く画風が流行ったのは19世紀も後半である。
少なくとも18世紀以前の画家はただ思想を伝えるためだけに芸術をものしていた。だから、本著で採り上げられているミケランジェロ、レオナルド、デューラー、ジョルジョーネの誰を理解するにも、そのイメージにこめられている意味や思想を理解する必要がある。そして、いつの時代を採り上げようと、われわれはこの意味世界で、作者と作品と共に、芸術のコミュニケーションを繰り広げる。

 ちょうど本書で解説される4人が顔を出したので、様式的な位置づけを話そう。一般的に、古典期(ルネサンス)は15世紀に始まり、1520年、ラファエッロの死をもって終焉とする。ちょうどその一年前にレオナルドが死んでいる。ジョルジョーネもルネサンス真っ只中に生まれ、若くしてペストで亡くなっている。ミケランジェロルネサンスの最盛期を標した人物に違いはないが、彼は1564年まで生きている。この時期はマニエリスムとされ、1585年に終わる。次にくるのがバロックであり、太陽王ルイ14世が死んだ1715年を区切りとする。ちなみにルイ14世絶対王政の最盛期を築き、文芸ではフランス古典劇(ラシーヌ、コルネーユ、モリエール)の黄金時代を現出せしめるに至った。
 つまり、レオナルドはルネサンスを完成させ、自らの手で幕を引いたわけである。では、彼の遂行した時代精神の飛躍とは何だったのか。一口に言えば、それは事柄の本質を描き出そうとしたことである。遠近法による空間表現、妊婦その他の死体を解剖して得た解剖学的知識、光学の実験から確立したキアロスクーロ手法(色彩と輪郭線の排斥)、それらのリアリズムをマスターした上で、美と精神表現を付け加えた。簡明に言えば、ドラマを創った。これが、今なお観衆が彼の作品から感じ取る神秘性である。
 
 少しく長くなってきたので、 最後に、本書自体ではあまり言及されていないが、若桑さんはジェンダーと美術という視点を持っているようだ。興味をそそられたので、もう何冊か彼女の著書を読んでみようか。