鈴木董 『オスマン帝国 イスラム世界の「柔らかい専制」』 講談社 2007

 近代ヨーロッパは、オスマン帝国を対立項に置くことによってはじめて、出現する。それは、オスマン帝国コンスタンティノープルを征服した1453年が、西洋史における中世、近代の分岐点とされているから、だけではない。ルネサンス宗教改革が吹きすさぶ当時の西洋にとってオスマン帝国は、ベーコンが言ったように「世界の目前の脅威」であると同時に、強靭で精巧極まる一つの頂点に達した国であった。ルネサンス概念の確立者であるヤーコブ・ブルクハルトが当時のイタリアを「計算された被造物、芸術作品としての国家」と称したが、15,6世紀の西洋人にとっては、オスマン帝国をこそそのような国家と感じていた。


 10世紀から13世紀前半にかけて、アナトリアには、衰退の兆しを見せはじめたビザンツ帝国、意気盛んなイスラム勢力、南欧系のカトリック教徒が鼎立していた。しかし、そこにはエアポケットが存在し、多数のムスリム・トルコ系の人々が流入していた。そして13世紀半ば、モンゴルがこの3竦みを打ち破ることによって、アナトリアは、無数のガーズィー(ムスリム・トルコ系の戦士集団)が割拠することになる。そんななか、帝国の始祖伝説に名を残すことになる男が、数百の仲間集団を率いていた。オスマン・ベイ(ベイは首長の意)だ。
 オスマン自身はそれほど勢力を拡大するには至らなかったが、息子オルハンの代には、14世紀中葉までに、ボスポラス海峡を隔てたアナトリアビザンツ領ほぼすべてを占領した。第3代ムラト一世は組織整備にも尽力し、奴隷軍人制度を起用して常備軍の基礎が築かれる。之は同時に、オスマン朝専制化も意味する。バヤズィット一世がアンカラの戦いに敗北したことで一時衰微するものの、1453年には、メフメット二世がコンスタンティノープルを征服するに至る。
 メフメット二世、バヤズィット二世はその後も順調に領地を拡大した。当時、イスラム世界はオスマン帝国を含め、イランのシーア派サファヴィー朝と、エジプトのマムルーク朝とで3極構造の様相を呈していたが、1512年に即位したセリム一世は両王朝に勝利を収め、当時の主要な海陸交易ルートを手中にした。加えて、ヒジャーズの支配者シャリーフ家からメッカとメディナの町の鍵を得たことで、オスマン帝国は全イスラム国家中で特別のプレステッジを獲得する。そして、スレイマン一世においてオスマン帝国は頂点を極める。彼の治世は46年に及び、1566年に歿するまで、「壮麗者」の名で呼ばれることになる。

 大帝の死後、後期オスマン帝国は、その対外関係に翳りが差しはじめる。とはいえ、イスラム世界におけるオスマン帝国の位置づけはある程度安定していた。実際、イスラム世界に対しては、18世紀にも、16世紀以来の領土を確保し続けることができた。しかし、対西欧関係は、18世紀前後から悪化する。1699年のカルロヴィッツ条約(ハプスブルク帝国ハンガリーの大部分を譲渡)など、後期オスマン帝国は、1922年に亡びるまで、恒久的な領土喪失に悩まされる。
 原因は2つ。第一に、近代西欧に起こった社会体制の変化と軍事技術の革新である。常に技術的優位に立ち続けていたオスマン帝国はここにきて、力関係を覆された。これはオスマン帝国の強固な組織支配を揺るがした。
 第二に、西欧の新思想、ナショナリズムが徐々に帝国内に浸潤してきた。帝国のズィンミー制度は「宗教」を基軸にする。前期オスマン帝国はそれでうまく回っていた。ギリシア系臣民は自分をギリシア正教徒(ローマ人)と意識していた。しかし、フランス革命はその意識を根底から変換させる。彼らはギリシア人意識にアイデンティティを求め始める。この「民族」という項は、オスマン帝国のゆるやかな統合のシステムを根本から破壊するものであった。
 これらの原因から、オスマン帝国は西欧化を躍起になって推し進めるが、結局、第一次大戦によって帝国は解体される。