Ferdinand de Saussure 『ソシュール 一般言語学講義 コンスタンタンのノート』 2007 東京大学出版会 

 ソシュールの思想は、ジュネーブ大学で行われた三回の講義に出席した学生たちのノートを通して知られる。一般的にはバイイとセシュエによるものが有名だが、丸山圭三郎は本著を推薦していたので、手に取った。というのも、言語学の一部門である音韻論の原型をつくったことで知られるプラーグ学派を渉猟していたら、こんがらがったのだ。これは、どこかで勘違いをしているなと思ったわけだが、果たしてソシュールだった。というわけで、ソシュールの議論を概略的に記してみよう(ところで、言語学は他に統語論と意味論からなる。統語論ではチョムスキーが有名だが、はて、意味論は?)。

 本書の前半は、言語学が対象とする領域を設定するために割かれている。ソシュール以前の言語学は、専ら歴史言語学に位置づけられる。しかし、ソシュールはもっと人間と言語を密接に関連付けた言語学を考える。垂直的な通時態は学者が扱うものに過ぎない、人々は水平な断面の上(共時態)で話すのだ。ゆえに、ソシュールは、歴史を捨象する。
 つづいて、ソシュールは、言語(ラング)の言語学と発話(パロール)の言語学を区別する。集団的な言語学と個人的な言語学と言い換えてもいい。ソシュールが研究対象としたのは、規則的な部分、言語という記号の秩序のほうだ。

 後半からは、いよいよ、言語システムの深遠に分け入る作業に入っていく。と、その前に結論を先取りしてしまえば、個々の記号はシステム内部の論理によってのみ決定され、外部の実体とは無関係だ、というのが大まかなところである。
 さて、上の結論を簡単に二つの方向から回収していこう。一つは記号の恣意性であり、もう一つは差異のシステムである。
 
 「猫」という言葉が指示する対象は何だろうか。うちでは白猫を飼っているが、最近運動不足なあんちくしょうが思い浮かぶ。あんちくしょうはこの世界の一部を占める実物、物質的な存在である。しかし、そう考えると可笑しな部分が浮かんでくる。例えば、虹の色は何色か。日本の大部分の地域では七色というし、イギリスでも七色だ。どうも七色というのはニュートンが言い出したようなのだが、世界を見渡してみると、それぞれの民族が十人十色、色々であり、二色と捉える民族も珍しくない。
 世界は実定的な要素の集合ではない。世界のあり方は、それぞれの言語がカッターナイフのように、勝手に切り刻んだものなのである。こういう特徴をソシュールは、言語の恣意性と名付けた。また、そのようにして切り取られた概念(世界の中にある実体のことではなく)をシニフィエという。

 二つ目も、言語の物質的な側面を考える。音声、特にその区別の立て方である。「ね」と「こ」の区別は音響学的に追究できる。しかし、日本人が「え」と「é」と「è」の音の区別を言い立てない理由を、物理学は語りえない。ここにも区別に先立つ実体などないのである。それどころか、区別区別区別、どこまでいっても区別(シニフィアン)しかない。ソシュールは言語には差異しかないと言ったのだ。

 結局、言語のシステムは、シニフィアンの差異とシニフィエの差異の総体に過ぎないのである。言葉は、外界に確固として据え付けられてなどおらず、それぞれのシステム内部のあらゆるものとの対立関係によってしか、位置も大きさも、すなわち価値など与えられないのだ。